アウトプットできるようになりたい欲
インプットは好きだ。
読書が好きだし、大学の勉強も割と楽しい。
けれど、アウトプットはどうも苦手である。
そもそも普段から自分の意見を言うのが不得手である。
SNSのポストも数日に1度、職場の会議はひたすら気配を消すことに集中している。
YouTubeでのコメントすらほとんどしない。
そんなわたしだけど、小学校の頃は授業では率先的に手を挙げて発表していたし、高校生の頃はブログやホームページを毎日のように更新していた。
じゃあ、何でこんなふうになってしまったんだろう。
きっかけ的なものは、正直思い浮かばない。
なんとなくだけど中学校の頃、授業で自発的に発表することがダサいみたいな風潮があった気がする。
思春期特有のものなのか、わたしが通っていた学校がやや底辺気味だったからなのか、それはわからない。
そんな風潮に当てられて、わたしも徐々に消極的になっていたし、何なら「自分が発言しない方が余計な時間を取られずに円滑に進むのでは」とまで思うようになった。
その頃は、まだ「自分の意見はあるが発言はしない」レベルだった。
それが今や「自分の意見がないから何も発言できない」になってしまった。
発言の機会を自分から遠ざけた結果、考えることを辞めてしまったのだと思う。
これについては、本当に後悔している。
読書をしても、感想が「面白かった」
ライブに行っても「楽しかった」
美術館に行っても「すごかった」
こればっかりになってしまった。
もちろん、スマホの普及なんかも影響していると思う。
例えば、SNSを見ていて、同じライブに行った人の感想ポストを見たとする。
感想が共感できるものであれば「自分も似た内容をポストするとパクりと思われそう」と感じて投稿をやめてしまう。
逆に、自分と全く異なる内容だったら「自分が感じたものは間違っているのではないか」と思い、これまた投稿をやめてしまう。
どう転んでも結果は同じ、自分の意見を言わないのである。
流石にそれはやべえだろ、ということでこうして細々とブログを書いてアウトプットの練習をしているが、年に数回程度の投稿という点で、お察しの通りである。
でも、アウトプットできるようになりたい。
念のために言っておくが、ただ「アウトプットできるようになりて〜」と布団の上で大の字になって天井を見つめ、手足をバタつかせながら発言しているわけではない。
先日、三宅香帆さんの『「好き」を言語化する技術』を読んだ。
そこでは、推し文化をベースに感想を書く技術を丁寧に教えてくれる。
書かれている内容は難しいものではなく、言い換えると「そんなん当たり前やろ」な内容ではあるんだけど、それができないから事実感想が書けないわけだし、その「当たり前」ができている人が世の中に自分の意見を発信できる人なんだと思う。
昨秋、わたしはXで読書垢を作成した。
数年ぶりに読書にハマり、このモチベーションを維持するために思い切って投稿を始めた。
内容は買った本の紹介や、読んだ本の感想である。
そう、感想!!
まさに自分の意見をアウトプットする場を設けたのである。
ありがたいことに、読書界隈は優しい人が多く、拙い感想にもいいねをくれる人が多い。
十数年やっているXの本垢はだいぶ前に鍵をかけてしまったので、ポストを見る人も限られている。
しかし、公開している読書垢は不特定多数の人に見られるし、何なら著者にリポストされることもある。
自ずと投稿の精度を上げたいと思うようになり、感想の内容を「すごい」「面白い」に頼ることをやめようと思うようになった。
これからの時代「言語化」のスキルってかなり重要になってくるはず。
すでに生成AIに対するプロンプトもこちらの指示を正確に言語化できることが重要だし、自分の意見を述べることができることって発言力にも影響がある。
書店に行くと言語化が最近のトレンドだなと感じる。
中学生以降、数十年逃げていたアウトプットについて、きちんと向き合う時期が来たようだ。
おまえのせいだ。
ここ数年でよく聞く「自己肯定感」
わたしはこれを高いという自覚がない。
自己肯定感の意味はこちら
なぜそう思うかという根拠は次のとおりである。
・人生経験が少ない(結婚経験がない、海外に行ったことがない など)
・誰にでもできるような仕事しかしてこなかった(スキルがない、資格が乏しい)
・褒められた経験が少ない(できて当たり前、特別なことではない)
特に、他人の目を気にしがちなわたしにとって、みっつめの「褒められた経験が少ない」は重要である。
というか、自己肯定感の低い人が他人の目(評価)を気にする傾向にあるのかも?とは思う。
それは一旦置いておいて。
この自己肯定感という言葉が世に出回り始めたときに、自分を顧みたことがあった。
その時に、ひとつ思い出した幼少期のエピソードを記しておく。
小学校一年生の春である。
小学生になったばかりのわたしは、初めて「テスト」というものを受けた。
国語のテストである。
B4サイズ両面に問題が書いてあり、内容は忘れたが、当時割と”もの覚え”の良かったわたしは、すらすら解いて時間を持て余した記憶がある。
そしてテストの返却日。
結果は95点だった。
うん!これはいい出来では??と小1のわたしは思った。
幼稚園まではテストのような、自分の能力をはかったり他人と比べるという経験がなかったので、まわりのクラスメイトより良い点が取れたことは誇らしかった。
ここまで聞くと、自己肯定感あんじゃん、って思うよね。
さて、帰宅したわたしは母親にテスト用紙を渡した。
見て、見て、わたし国語のテスト95点だったの。
初めてのテストだったけど、結構いい点数じゃない?
返ってきた母親の言葉はこうである。
「なんであと5点取れなかったの」
いやいやいやいや。
そこはさあ、すごいじゃん、がんばったね、えらいねぐらい言ってもいいんじゃないでしょうか!?
もう責められたような心情である。
それ以来、満点以外のテストを見せるのが怖くなったことは言うまでもない。
余談だが、当時小1のクラスメイトにとても頭の良い男の子がいた。
コウタ(仮名)くんは、テストの成績も優秀で少年サッカークラブやスイミングスクールにも通っておりスポーツも万能だった。
そのコウタくんをクラスの担任がえらく気に入っており、授業でコウタくんが発表したりテストを返すときに「コウちゃんは本ッ当に天才!!」とほめちぎっていた。
たしかにコウタくんは天才だった。
事実、彼は当時さほど多くなかった中学受験を受け、見事合格して地元からすこし離れた名門中学校に入学したのであった。
でもさ、だからって担任がいかにも贔屓することってなくない??
他のクラスメイトでも頭の良かった子どもはたくさんいたし、何ならわたしがコウタくんよりテストの成績が良いこともあった。
なのに、コウタくんに向けたような言葉がわたしに向けられることは一切なかった。
もちろん、他のクラスメイトにも。
そんなことがあったから、せめて家族である母親には素直にほめてもらいたかった。
けど、素直な小学生だったわたしは「なんであと5取れなかったの」に対して
そっかあ、100点以外はだめなんだ。
だから先生もほめてくれないんだ。
こんなことを思っていた。
だから、このエピソードも大人になってしばらくするまで思い出せなかったし、この話やばくね?って思うこともできなかった。
でも、思い出したときに、じんわりと涙が出てきた。
そのとき「ああ、しんどい」って思った。
だから、このエピソードって、当時はなんとも感じていなかったけど、遅効性のある毒のようにじわりじわりとわたしを蝕んでいたんだな、と感じた。
そして、このエピソードを前職の恩師に話したことがある。
恩師はわたしよりもずっと年上でとても仕事ができる、あらゆる意味で「強い」女性である。
外部コンサルという立場であったが、慣れない店長職と閉店というショックで打ちのめされていたわたしのそばでともに戦ってくれた恩人でもある。
ご自身も忙しいであろうはずなのに、わたしを気にかけてくれて仕事の後にごはんに連れて行ってくれ、その帰り際に、なんとなく家族の話になったのである。
すると、その恩師は泣いてしまった。
芯のあるバリバリ仕事ができる、とても強い方に涙を流させてしまった。
どうしよう。
あわあわしていると、恩師はわたしを抱きしめてくれた。
恋人や友達以外の人に抱きしめられるという経験は初めてだった。
母親にもされたことがなかった。
「あなたは頑張っている。えらい。えらいのよ」
河原町通のアーケード、
たくさんの人が行き交う中、
恩師とわたしは泣いた。
このブログというかこの記事は、誰かに見てほしくて書いているわけではない。
幼少期のエピソードに対して「大変だったねえ辛かったねえ」と言ってもらいたくて書いているわけではない。
そして、恩師に抱きしめられたことで幼少期のわたしが報われて自己肯定感が爆上がりしたわけではない。
(もちろん、恩師のこの行動や言葉に救われた部分はある)
では、なぜ言語化しているのか。
以下に呪いの言葉を吐こう。
もし、わたしが死に、
なにかのきっかけで母親がこの記事を見たとき。
おまえのせいでわたしは小学校1年生からこれまで
苦しい思いをしたんだからな。
おまえのせいだ。
あーあ、なお気持ち
今日はいやなことが2つもあった。
いやすぎてつらすぎてしんどすぎて、ことばにしないと身体の中にどんどん負の感情が溜まってきてしまいそうな気がしたのでここに文字通り吐き出させてほしい。
ひとつめ。
先月対応していたクレームのお客さんから再度連絡が来た。
クレームの内容は、お客さんの過失によって商品を破損させてしまったにもかかわらず、あの手この手でこちらに非があるように文句を言ってくるというもの。
正しい使用方法でなかったのだから、壊れてしまったのは「そりゃそうだろ。」としか思えないんだけど、そのまま言っちゃうのは会社としてよろしくないので、それはもう丁寧に丁寧に返信した。
オブラートで何重にも包んで、中(の人の感情)が見えないように。
さらにchatGPTの校正というフィルターも通して、ろ過したことばで返信した。
この作業がとにかく苦痛で仕方なかった。
余計なことを書いていないだろうか。
火に油を注ぐような言葉遣いではないだろうか。
何度もなんども作った文章を読み返してようやく送信することができた。
クレーム内容を詳しくは書かないけれど、このお客さん、なんというかこちらの誠意が伝わっていない感じがする。
文体は敬語で丁寧なんだけど、根本的に常識が抜けているというか、人間社会で生きているんだからこんなこと説明せずともわかりますよね??ができない。
だから、いやすぎてつらすぎてしんどいのである。
しかも、前回の返信から1か月も空いているにもかかわらず、納得いかない的な返信を今頃寄越してきたのである。
長期戦になればなるほどこっちの神経は磨り減るばかり。
クレーム対応お疲れ様手当みたいなの欲しい。
もしくはメンタルケア的な福利厚生が欲しい。
ふたつめ。
わたしの大好きなゲーム実況グループのひとりがやらかした。
正確にはやらかしていた。
正直こっちのほうが重いわ。
だって6・7年くらいずっと応援していて、去年はその人が出した本のお渡し会にも参加して、人生で初めて推しに直接会って話すことができて、本当にうれしかったんだ。
なんとなくだけど、わたしが好きになる芸能人やアーティスト、有名人はあんまりやらかすことがなくて。
やらかしても、その時にはわたしの熱もだいぶ落ち着いている頃だったからダメージが少なかったんだけど、今回はずーっと好きでYouTubeも見ていて、ポケモンの実況次はいつ配信されるだろうな、来年あたりリアルイベントで関西来てくれないかな、なんて楽しみにしていたのに。
めっちゃすき!!推し!!という熱量ではなく、もう日常の一部みたいな。
それこそ、仕事で嫌なことや落ち込むことがあったら見る用に作ったYouTubeプレイリスト「元気が欲しいときにどうぞ」はほぼこの人たちの動画なのである。
それなのに。それなのにである。
やりやがったな。
独身だし、プライベートな話だし、いちファンがそれに首つっこんでどうこう言う気はないけれど。
迷惑かけちゃだめだろ。
SNSで同じようにショックを受けている人たちのポストを見て、さまざまな思いがよぎる。
メンバーふたりの配信も聞いた。
特に考えさせられるのは「もうこれまでどおりには笑えない」ということ。
今までのように笑えるネタが無くなってしまった。
するとどうしても言葉を選んだり、無理やり話題を変えたりする必要があり、ぎこちなくなってしまう。
そんな風にしたのはあなただよ。
あなただけはそっちに行ってほしくなかったなあ。
活動休止が発表されて、いつ復帰するかはわからないけど、その時わたしは素直に喜べるだろうか。
今までどおり素直な気持ちで応援できるだろうか。
今はまだ、わからない。
そんなことをつらつら書いていたら、お菓子のパッケージで指を切ってしまった。
いやなことみっつめ。
しかも、明後日までに大学のレポートを仕上げなければならない。
こんなメンタルでレポートなんて書けるかあほんだら。
いやなことよっつめ。
あーあ、この世はいやなことであふれかえっている。
2年次夏期のふりかえり
大学の話。
7・8・9月は夏期に位置し、7・8月はレポート提出が4本、9月は2科目の単位習得試験に臨みました。
結果は、受講した4科目全部単位取れまして、現在52単位になりました。
これまでふりかえりなんて一切やってこなかったくせに、急にこんなことを始めた理由はコレです。
なんと!
4科目中3科目で、
レポートの評価でSをいただきました!!!
ヤッタネ!!
S評価は過去にももらったことはあるけれど、1期で多くても2科目でした。
それが、なんと3科目!こんなに嬉しいことはない。
入学したての頃は「単位が取れればSでもCでも同じっしょ」なんて思ってました。
けれど、はじめてS評価をもらった時は心の底から嬉しかったし、友達や上司にも自慢したものです。
特に、今回は絶対に良い評価を取りたいもとい、取らなければならない科目があったのです。
そのレポートの課題が「自分の住んでいる地域の伝統行事や風習を聞き取り調査して考察すること」
京都に住み始めてはや5年、しかし子どもがいるわけでもなく、単身者のわたしはなかなか地域の行事に参加することも少なく、しかも京都というたいへん歴史ある街の伝統行事なんてほぼ毎日ある。
しかも、聞き取り調査をしなければならないというのがわたしにとってとてもハードルが高いものでした。
周囲には、わたしと同じように京都に移り住んできた人たちばかり。
友達もほぼいません。泣
京都生まれ京都育ちの上司はあんまりそういうのに関心がなさそう(仕事一筋40年)で、聞き取り調査をしてもあまり良い情報が得られなさそう(失礼)
そこでわたしが泣きついた相手は、うちの社長。
一族経営で代々京都で商いをしていたのだから、まあその辺は詳しいっしょ、、
と半分本気・半分冗談なノリで聞いて見たところ、
それはそれは親身になって色々と情報やアドバイスをくれました。
そこで社長が挙げてくれた祭りをテーマにレポートを書くことに。
後日それを報告すると、わざわざ自宅からそれに関連する書籍や資料を持ってきてくれたのでした。
ね?
ここまでしてもらったからには、ちゃんとしたものを書かなくちゃいけないじゃん??
誰だよ「S評価もC評価も一緒」なんて言ってたやつ。
しかも社長が資料を貸してくれた時点でレポート提出締め切りまで2週間を切っており、提出までの間は好きあらば1文字でもレポートを書くぞという日々でした。
さらに、テーマにしたお祭りが近々あるぞということも知り、実際に見学に行くなど、インドア引きこもりがデフォのわたしにしては割と精力的に動いたのではないかと。
これまでもさまざまなレポート課題に取り組んできましたが、実際に見たものを取り上げるのは初めてだった気がする。
百聞は一見に如かずということばがあるけれど、実際にお祭りを見学したことで、雰囲気や参加者の様子などもわかったので、考察しやすかったです。
色々練りに練っていざレポート提出!
もっとこうするべきかも、いや、ああしたほうがいいかも、なんて迷いや悩みもあったけども勢いのまま提出しちゃいました。
出してしまったらあとはどうにでもなれ!的な、なんだか悟りをひらいたような気持ちになるのは何故なんでしょうね。達成感とはまた違うなにか、、
そうしているうちに、教授からの講評が発表される時期に差し掛かりました。
講評は、予め動画で撮影されたものを我々学生は一定期間のうちに視聴しなければならないシステムです。
なので、リアルタイムではないのでその場で質疑応答などはできません。
一方的(というとやや聞こえが悪い)な担当教授の講評。
レポートの採点基準(こういった内容が書かれていないものは評価が落ちますよ、とか)を中心に、この科目の取り組む意義のような、達成目標的なものなんかを改めて教授の口から聞かされると「もっとシラバスをちゃんと読めばよかった…」と落ち込んだりもするものです。
そんな中、提出されたレポートで、特に良いとされるレポートの紹介がありました。
レポートは4本、おそらく東日本と西日本で各2本を取り上げられていたと思われます。
その、西日本ブロック(?)に、
わたしのレポートが取り上げられました〜〜〜!!!
ヤッタネ!!!!
教授の口から「京都市◯◯地区の◯◯祭りについて、、」と出た時は
「フゥン…同じテーマじゃん」なんて他人事だったのですが、よくよく聞いてみると、レポートの構成や考察の内容からして
「わたしじゃん!!!」
講評で取り上げられるのは初めてだったので、嬉しいやら恥ずかしいやらで急に手汗がブワッと出てきたのを覚えています。
そのあと採点結果を確認すると、S評価。
なんとか社長の恩に報いることができました。
実はまだこの話、社長に伝えてないんだよね。
近々会社で飲み会があるので、その時にサラッと伝えられたらいいなと思います。
シラフで言うのはちょっぴり恥ずかしいからね。
お気持ちの綴り方
わたしは自分の気持ちを文章にするのが苦手だ。
嬉しかった 楽しかった
面白かった 美味しかった
とても すごく めっちゃ ちょっと やっぱり
わたしの綴る気持ちはだいたいこの組み合わせになっている気がする。
たとえば、先日いったゴッホ展。
「混んでてじっくり観ることはできなかったけど、ゴッホの初めて見る作品がいっぱいで楽しかった。ゴッホの家族の想いも知ることができて面白かった」
ね?
小学生の作文のほうがまだマシな気がする。
一方で、できごとや質問に対する説明は、自分で言うのもアレだがいい感じにできる。
仕事柄、お客さんからの問い合わせに回答したり、得意先に営業に行って商品説明をしたりするからかも。
それは大学のレポートにも活かせているようで、ありがたいことにレポートの添削結果も「文章構成がしっかりしている」「読みやすい丁寧な文章」といただくことも少なくない。
なのに。
LINEの返信やSNSのコメントはなぜこうも薄っぺらいものになってしまうのだろうか。
後から読みかえすと、相手に対して関心が薄いかのようである。
その理由は、恐らくだけど
なんというか、こう、文章のテンションがわからないのである。
「!」や絵文字を多用するのもウザそうだし、なんかテンションが嘘くさくも感じる。
しかも、絵文字もこれってちょっと古い…?とか本当に適している絵文字か…?とか考え始めるともう何も書けなくなる。
かといって、淡々と書いて冷たいヤツだなと思われたくないし。
しかも、最近マルハラとかいう言葉もある。
この書き方だと語弊があるかな?とか、傷つける言い方ではないかな?とか、気になり始めるとキリがないし、一生先に進めなくなる。
だから、文才というか躊躇なくスラスラとLINEの返信が打てる人間になりたい。
レスポンス速い人が羨ましく思う。
あーもうわからん!
ニホンゴムズカシイ!
今月のレポート。
本日2科目分のレポート提出。
平日の夜に仕事で頭を使い果たしてなーんも考えられない状態で提出すると、後から誤字に気づいて悔やむことになるので、休日で比較的脳内メモリに余裕がある状態でないと提出できない身体になってしまいました。
1年も経つと色々変わってきますね。
今回のレポートも難産でした。
1つは文字数がオーバーしまくって削るのに一苦労。
もういっこは課題が難しすぎて一週間1文字も書けんかった。
どれくらい難しいかというと、その課題の文章で検索かけると複数件の知恵袋がヒットして
「こんな課題があるんですけど何書いたらいいんすかね??」的な質問があるくらい。
何なら知恵袋の回答者が「その課題おかしくない?誤字じゃない?」って言われてたからね。
それくらい、その課題で書ける内容が無さすぎる。
でも何とか書き上げました。無い知恵絞って。
課題内容を素直に受け止めていたら一生書けなかったと思う。
深読みをしまくって一周まわって捻くれたレポートになりました。揚げ足取りみたいな。
普通の課題だったら「いや、ちょっと捻りすぎだろ」ってなる。
出さないよりはマシかなって。
提出して、採点してもらった方がある程度方向性見えるもんね。
今は、来月提出のレポート課題3本に取り組んでいます。
3本のうち1本はほぼ書き上げているので(えらい!!拍手!!)あと2本。
少しずつ前倒しで取り組む癖がつき始めたことは成長の証だと勝手に思ってます。
夏休みの宿題は最後の日にやるタイプのわたしが!来月提出のレポートを!
なんと!既に書き上げている!
そろそろスキル:飽き性が発動しそうな気はするけど、やれるところまではやってみよう。
進級おめでとうありがとう
今日から大学2年生です。
進級という概念は無いに等しいのでタイトルはあまり適切ではないかもしれない。
さっき、学生証の有効期限の部分を今年度に変える修正シールを貼りました。
入学時に渡された学生証は、有効期限が1年だけのものなので、毎年有効期限を上書きするシールが郵送で届くのだそう。
初めて貼った修正シールはちょっと曲がってしまい、、
無理に剥がすと破けそうで、そのままにしました。
今年の履修計画は、去年と同じ科目数を受けることにしました。
全部で18科目。春期と冬期に比重を置いて5科目、仕事がちょっと忙しい夏期と秋期は4科目受けることが目標です。
通信制なのでテキストを読んだり動画教材を見て、レポートを作成することが主な学習方法なので、ほぼ自分がペースを握っているわけで。
テキストを読むのが遅かったり、レポートの筆が乗らなかったりするとめちゃめちゃ焦る。
ちなみに本日4月1日の状況。
テキスト2冊読了、1科目のレポートを書き上げて次の科目のレポートに取り掛かり始めたところ。
…すごくない?笑
コツコツやるのが大の苦手なのに、ちゃんと前期のうちからテキスト読んでるのすごくない??笑
去年の年末、つまり秋期の終わりぐらいから次に履修するテキストを読み始め、いい感じに冬期もレポートも進み、現在に至っております。
前倒しサイコー!!笑
しかも、飽き性なのにちゃんと継続できている。
正月でよく見る、星座や血液型を組み合わせて「今年の最強運勢ランキング」的なもので、わたし(蟹座✖️AB型)が割とどこのサイトや番組で見ても上位におりまして。
解説にも「行動力が上がる」的なことが書いてあったので、意外と当たっているのかも。
それか、このランキングを見てパワーをもらったかのどっちか。
いずれにせよ、良い方向に作用しているのは間違いなさそう。
わがままを言えば、この最強運勢で腰痛もどこかに吹き飛んでくれないかなあなんて思う、春の夜でした。